昭和48年01月30日 朝の御理解
御神訓 一、「真にありがたしと思う心 すぐにみかげのはじめなり。」
お道の信心の目指しとでも申しますか。真にとはまことにと。真に有り難い。本当の有り難いという事。本当の有り難い。そういう心が生まれた時、もうすでにその人は助かっておるのだ。すぐにみかげのはじめなり。そこからいよいよ助かって行く道を歩かせてもらう。おかげを頂きます。本当に勿体無いほどしのおかげを頂く。又は不思議なおかげを頂く。有り難うございます勿体のうございますと。ですからそういうのはまことの有り難しというのじゃないです。
子供がおやつをもらって喜ぶようなもんなのですから。けれども本当な事が分かって、そこから生まれてくる喜び。本当の事が分からせて頂く喜び。それが真に有り難いという心。昨日は敬親会でございました。昨日お参りされておられた、お婆さんあるお婆さんが、こんな事を言っておられます。私の姑親というのは、非常に厳しい方じゃった。もう朝は、家族中の者よりも一時間は早く起きらなきゃならない。夜は皆が寝た後に一時間は夜なべをしなければ出来んという家でした。
それに年寄りに子供にして、くうく参りましたとこう言うのです。それでも一つも良い嫁としては扱われなかった。まぁいうならば姑親にこなされたという意味の事を言っておられた。ところが今度は又、嫁を貰うた所が、今どき私共が嫁御時代の事を言うたっちゃ聞きもしませんが。もう親を大事にしようてんなんてんち言う事は、全然思うとるごたる風じゃありません。
まぁ言うたっちゃ聞かんから、あきらめて言いません。と言う様なお話でした。そしたらそりゃあなた丸っきり地獄に行っとるごたるですのち、私が言うた事でした。親からはこなされ、嫁御からはこなされる。だから信心というのはね、本当に婆しゃまんおかげで、嫁御のおかげでと言えれる所に、信心があるのですよと。と言うてまぁ話した事です。本当にいわば、厳しい姑親に付かせて頂いたおかげでです。
よか修行が出来たと。まぁ嫁御さんの目に余る様な事がある事のおかげで、是じゃこの人達が本当に助からん。この人達の為にでも信心させて貰わにゃというような事になってくると婆しゃまのおかげで、嫁御のおかげでいう事になるのですよ。そういう時に私は有り難いというものが頂けた時、それが真に有り難いという事じゃなかろうか。又は先日から頂きますように、様々な事柄に対する、難儀に対するところの、味の付け方と言う様な事を頂いたが。
その翌日に一番間違いのない頂き方は、修行として受ける事だという、御理解を頂いた。ですから昨日のそのお婆さん。もし信心は全然ないわけ、昨日始めて参ったお婆さんですから。昨日から敬親会には入れて下さいというのですから。ですからもし信心があったらです。いうなら婆しゃまのおかげで、嫁御のおかげでと言う事になり、又はそれを修行とし、本当の受け方が出来た時です、生まれてくる喜びが真に有り難いという心なんです。とてもそげな事は出来まいというけども、それを稽古致しましてね。
本気で自分の信心というのは、いわゆるおかげを受けることが信心ではなくて、信心を頂く事が信心だと言う。わが心が魂が神に向かって、一歩一歩近付いて行くという事がです、お道の信心だと向きが変えられたところからです。神様がこのようにして、神に向かう一歩一歩を築かせてくださるんだ、修行させて下さるんだという尊い修行にななっ来る。そこには親が助かり又は嫁が助かる道も、そこから開けて来るのである。
両方から恩人と言うてお礼の言えれるような、おかげにもなってくるはずである。けどもやっぱそういう人が、今の時代には多いようですよね。私だんが若っか時には、私段が嫁御の時にはこうじゃったと。随分苦労したと。所が又今度最近は時代が変わって今度は嫁御の方が、上位になった様な感じであって、若い者を中心になって来ると、又若いもんのために、苦労せんならんと言った様な人達があるようですよね随分。だからそこに真の信心が、どうでも必要だという事になる。
昨日吉井の熊谷さんがお届けをしておられますのに、本当にいかにこの問題には、素晴らしい味をつけようか。とにかく修行で受けるという事が最高だ、と言う様な風にこう頂いてまいりましてね。本当にそうだなぁ一生が修行と仰るから。本当に修行で一切を受けなきゃならないなと思うて、昨日一昨日でしたかね帰らせて頂く。所がまぁその所は簡単に申しますならです。目下の人からもうそれこそいうなら、えらいこう馬鹿んごと言われなさった。しかも日頃この人から。
こんな事は聞いた事ないと言う事まで、言われなさった。そこで熊谷さんの心の中にです。あいた神様が是で修行させて下さるばいなぁと思うから、何か知らん有り難いものが、もう黙ってきいとった。そしてから心の中にね、この人がどげな風に言うたなら喜ぶじゃろうかと言う事ばっかり考えたち言うんです。素晴らしいですね。ここが素晴らしいです。人からこう、喧しゅう言われる。じっと我慢しとる。
そしてなんか一突きで、すぱっと相手の心臓を突き貫く様な事でも、そういう言葉を心の中に探すという時代があるでしょうが。一言で相手が愚の根も出らんように言うてやろうと。そういう言葉を心の中で探す。言われておる黙って辛抱しとる。一言ぴしゃっと相手の、いうならばその息の根を止めるような言葉を考えるというのが、そういう時ですね普通は。所がそういう時にです、自分の心が信心の方へ向いております時にはね、はぁ修行させて頂きよると思う。
しかもその只修行だけで、ぐうぐうと堪えるのじゃなくてです、相手にどう言うたならば、相手が喜ぶじゃろうかと言うことばっかり考えたとこう言われる。それでも中々相手が治まらない。そこへある人が見えて、こうこうだあぁだと説明してもらったから、はぁそげなこつじゃったのと言うて、相手も分かるようなおかげを頂いたと言うのである。そしたら夕方、福岡におられる長女の方が見えて、あちらの娘さんが縁につかれますので、はなむけに沢山反物を買うて持って見えられた。
その中にえらい地味なつがあるから、あんたこげなつば、陽子がいくらなんでん地味ばなちゅうたら、お母さんこりゃもう私の最後の親孝行と思うてから、これ一反買わせて頂いたってそりゃもう見事な反物を、お母さんにと言う事であった。もう本当神様こういう本当な受け方をさせて貰うところにです。本当に私はそれをなにげなしにお届けしておられる、熊谷さんの話しをお届けを聞きながらね、相手がどんなに言うたら喜ぶじゃろうかという事を考えられたと言う事は、そのまま真に有り難いという心です。
もうこれは神心です。こん奴がどげなこってん言う、と言うてここ思うて聞きよるとじゃないもん。一言で相手が喜ぶような事を考えよると。どんなに言うたらええじゃろうか。その心の状態が、私は真に有り難いというのだと思うです。そこには直ぐにみかげのはじめです。夕方にはもうそのいわば求めてもおらん、願ってもおらんけれども、とにかく、金で買おうと思うても買えないような立派な反物を、直ぐにみかげの始めなりと言う事が簡単に分かるですね。
私はね信心というのは、そういう信心を、身に付けていかなければいけない。それをおかげ信心、おかげ頂く事が信心だという間は、自分に都合の悪いことが起こったり、都合の悪いことを言われると、それをむきになって、それに答えようとしたり、それをやり込めようとしたり、それをおかげではないと思うたりするのです。だから一番本当な事は、それを修行で受けるということが一番有り難い。ただ受けるだけではなくて、もう一つ向こうにです、喜ばせてやりたい様な心が起こってきておる。
わが心が神に向こうておるから、それが出来るのです。信心とはわが心が神に向うて行くのだと。所がねいくら私は二十数年間、皆さんにも聞いて貰うて来た。お話をしてきた。それが皆んないうなら、この真に有り難いという、おかげの頂けるようなお話ばかりを説いてきた。けれども果たして沢山私の話しを、毎日聞いて下さった方でです。愈々信心とは、わが心が神に向こうのを信心というのじゃと言う所に。
向きを変えて信心を進めて、真に有り難しの味わいを味わうていっておる人が、果たして幾人あるだろうかと思う。私は昨日まぁ大発見をしたような思いがいたしました。夕べの御祈念の後に、皆さんに御理解に聞いて頂いた。昨日私がお知らせを頂いた中にですね。一枚の大きな絵なんですよ。それも素晴らしい絵なんです。それがどういう絵かちゃ、幽霊の絵なんですよ。もう雪が降ってる。何処までも見渡す限り銀世界。そこにですね、幽霊がいうなら、五人三人ちゅう三三五五です所謂。
その風に吹かれふわっとして、こう足が無いとですよね。下が銀世界でしょう。それに白衣を着てるでしょう。それに髪がこうやって、あのね幽霊スタイルですいわゆる。手は前にこう下げたつが、空中を彷徨う様にしてそれが一つも、直ぐさがないんです。嫌らしい所がないです。何とはなしにまぁ一服の宗教画を見るような感じなんです。そういう私は、お夢にお知らせを頂いた。どう言う事であろうかと、私は思うた。
親鸞聖人という方は、お釈迦様の教えを、様々に説き明かされた中に、どんなに悪人であってもです。どんなに罪深い者であってもです。南無阿弥陀仏を唱えれる事によって、助かる事が出来ると説かれたわけなんです。それはそれが弥陀の本願なのだからというのです。天地の親神様の、それが願いなのだから。どんなに学人であろうが、業の深い者であろうがです、教祖はそこん所を「屑の子ほど可愛い」とこう仰った。
難儀な氏子ほど可愛いのが親心じゃとこう仰った。親様なのだから。それは弥陀の本当の願いなのだから。どんなに強悪の悪人であってもです、南無阿弥陀仏を唱える所にです、助かる事の出来れる道が開けると教えられた。私はここん所がどうしも分からなかったです。親鸞聖人様ともあろう方が、ただどげな悪人でっちゃ南無阿弥陀仏ちいうなら助かるちや、どういう訳じゃろうかと思いよった。
こりゃ誰でも仏教にならにゃいかんばいと思うぐらいに、本当ならば。所がそれが本当である事を、昨日は何かそのお夢に頂いた幽霊の絵からですね、感じとらせて頂いたんです私は。と言うのはですね、南無阿弥陀仏を唱える所に、助かる事が出来るという事。助かるち言うちゃなかです。南無阿弥陀仏どんな悪人でも南無阿弥陀仏と、弥陀の御手にすがろうという気が起こったらです。そこから助かって行く道を導いて下さるというのです。どんなに悪人でも。
勿論いわば成仏することの為に。仏教はいわゆるこの世ではどうであっても、あの世で成仏すると、仏になるという事が願いです。信心の眼目になっている。そすと、金光大神の道はこの世で生神を目指そうと言うのです。この世で神になる。だから成仏というか、成神と言うですかね。私共の心が神に向こうて行くという事。そこでですいわゆる信心にならなければならない。親先生と。
昨日昨夜の当番が、御祈念の時に、久富先生でした。久富先生の後を受けて、私がお話しさせて頂いたんです。私にとっては親先生は、金光様であり天地金乃神様なのだ。だから親先生というところに、金光大神の働きも、又は天地の親神様の御働きを現す事が出来ると、私は信じておるというお話しをされた。所がその言われておる親先生自身が、我情我欲の方ばっかり強かったら、おかげを頂かれんと思うんですよね。
ほんなら親先生自身が金光大神を頂ききり、天地の親神様の、例えば御比礼、働きというものを現し得ておる親先生であるならばなるほど、久富先生が仰るように、親先生と言う所には、金光大神が現れ、天地金乃神様が現れなさると思うです。ここで皆さんが言うでしょう。金光様ーと言うよりも、親先生ーと言った方が、身近に感ずるんだと。それは、私がです、出来はしませんけれども、おかげの方に向きをおかずに、おかげという、頂くという事が信心とは思うていない。
わが心が神に向こうて、神になって行くことを信心だと。もうこれは向きを変えてしもうておるからです。親先生で助かるんじゃないかとこう思う。そこでです親鸞が南無阿弥陀仏を唱える事によって、助かる事が出来ると言う事はです。親先生金光様と言う事で、助かるじゃない、助かる事が出来ると言う事が言えるです。私は最近総代の高芝さんのご信心に、それを非常に感ずることがあるのです。五、六日前でしたか綾部さんが二度目のお参りを、娘さんを連れてお参りになりました。
その時にもう親先生最近の高芝んおっちゃまは、もう言う事ありまっせんちこう言う。今まで随分言う事が多かったて。もう最近のおっちゃまの信心を見とるとですね、もう言う事はなかちこう言われる。何故だろう。いわゆる二十何年間私との関わり合いが出来てから、総代としておかげを頂いてこられた。随分おかげを頂いてこられた。けれども何とはなしに、おかげを頂くという信心だったという感じです。
それが最近はですね、信心を味わうと言うか、信心を頂くと言う事に何か向きが変えられておるというものを感ずるのです。特にこの寒修行が始まってからです。もうとにかく人を押し退けてからでも、一番前の方へ出て来たい。とにかく親先生の信心をもう一言でも漏らす事。今まではですね大体、あんまり話を聞くとは好きじゃ無かった様な感じです。それでもおかげを受けるもんだから。所がです親先生と言う、その思いがあればですね、いわゆる助かる事が出来るというそれなんです。
二十年間はだから本当の助かりじゃなかった言うならば。おかげは頂いてきたけれども、心は神に向こうておるという信心じゃなかった。けれども何とはなしにこの寒修行からこっちもうとにかく、親先生のお話を一言でも聞き漏らすまい。そして本当の信心に、真の信心にならせて頂こうと言う様な願いが立てられ、心が切り替えられなさった感じです。そういう姿が綾部さんが言われるように、最近のおっちゃまには、言う事はないと言う事になって来たのじゃないでしょうか。
だから私は皆さんの中でも、今さぁ真の信心になれじゃないです。高芝さんにして、二十年間おかげ信心で、今日までおかげ頂いておられたけれども。もう親先生一点張りどんな場合でも、親先生任せという、この親先生親先生を言うておるならです。いわゆるどんな悪人でも南無阿弥陀仏を言う事によって、助かる事が出来るという、機会を与えて下さる。神様が何時か。ほんなら高島さんの場合は、二十年ぶりに本当の機会を与えて下さったような感じ。最近ではわざわざテープを買われましてね、小型の。自分が頂くだけじゃない家内にも聞かせたい。
あそこに集まってくる誰彼にも聞かせたい。自分の頂いておるものだけでは勿体無い。と言うのが最近の高芝さんの信心なんです。ですから御神縁を頂いて、金光様と言う事を唱えると言う事がです。それはね私が如何に信心になれ、信心になれと言うてもです、やはりおかげ頂きたいばっかりに参っておる人があるから、そりゃそれでも良いです。けれども途中で止める事なしに金光様金光様、親先生親先生と言う事を、忘れさえしなければ、何時かは神様がです、本当の機会を与えて下さるんだと言う事です。
親鸞聖人はそこん所を仰った様に思うんです。南無阿弥陀仏を言や、どんな悪人でも助かることが出来るんだと。助かるというのじゃない。南無阿弥陀仏と言う事を、心を神様に向けてくればです、そこから教導をして頂く。本当の成仏が出来る事のための道を教えて下さる。本当の生神様になる事の為のです、道を教えて下さるのが、金光大神であります。だから皆さんの心の中に本当にそれは。
金光教の信心はやはり現世においてのこの利益と言う事を、第一とは致しませんけれども、実際におかげを受けるもんですからね。一生ただそれだけで終わるという人もありますけれどもです。それは死んでからでも、金光様ということを忘れなかったら、御霊の世界に入ってからでもです、本当の信心に導いて下さる事が出来ると思うのです。こりゃ皆さん本当に金光様を唱える事を、どんなに我情我欲での信心でも構いませんから、金光様を唱える事だけは忘れちゃならん。
何時か何かの機会にです、本当の信心に導いて下さる働きが必ずあると、私は思わせて頂いておる。なるほど金光様を唱えるという事の素晴らしさ。昨日は最後に金光大神、金光様と言うのは、もう掛け声だという風に頂きましたですね。苦しい時には、本当に、生神金光大神様がおすがりする綱であり。きつい時には金光様は本当に掛け声なのである。その金光様を忘れさえしなければ、ご利益信心でも良いんだと。何時かはです成仏出来れる。本当の神様へ心が向かせて頂く事に導いて下さるというのです。
けれども願わくばです、ほんなら今日只今私がまだこうしておる間にです。分からん所は聞かれる。本当の事が。ですからなら私がこうやって一生懸命御理解を説かせて頂いておるうちにです。本気で、信心とは、わが心が神に、いわゆる、成神です、成仏というなら。本当のこの世において、わが心が神に向かって進んで行けれる道を進ませて頂く。そこから、生まれてくる喜びなんです。そこには一生が修行じゃと仰る、昨日の敬神会で申しましたお婆さんの話しじゃないですけれどもです。
婆さんにいじめられ、嫁御にいじめられというのではなくてです。婆しゃまのおかげで、嫁御のおかげでという信心。そこから生まれてくる喜びを真に有り難い。熊谷さんが、もうほんに、悪う汚うこう言われる。しかもそりゃ自分の目下の者から、ねぇごつ言いよるのと、一遍ぶっすりに相手の心臓をついても良いような訳なんですけれども。修行で受けるという事が、本当だということを分からせて頂いたのですから。
はぁこれば修行で受けようと思うたら、心が嬉しゅうなってきた。そして、相手が、どげん言うたらならば喜ぶじゃろうかというような事を心の中に一生懸命描いておる。これが真に有り難いなのである。だから、真に有り難いという心を、直ぐにみかげのはじめ。もう向こうの方には、おかげが来て待ってるという感じなんです。そういう信心を、お互い目指したいですね。
どうぞ。